私は先日、東京都内でもストーンサークルが見学できる場所がある、という記事を読み、都内なら千葉県民でも見学しに行けるっしょ!と、月曜日に朝早く家を出てストーンサークルを見学しに行った。
都内で唯一のストーンサークルその名も『町田市田端環状積石遺構』。
日本一駅から近いストーンサークルということでもいわれており本当に駅から近く、最寄り駅は、京王電鉄相模原線の『多摩境駅』。
関係ないけど多摩境駅には、私の祖母と祖父が眠るお墓がある場所でもある。
いつもは車で母親たちと多摩境駅に来るのだけど、今回はひとりだし、高速道路の渋滞を避けたい気持ちもあって、千葉から電車で2時間半(高速道路を利用していたらもっとかかっていたかもしれない)、多摩境駅に到着。電車って行く場所にもよるけど乗り換えの回数が多くてちょっとイヤなところはあるんだよなあ。
多摩境駅から田端環状積石遺構へ
私は去年12月の終わりごろ、町田市にある国史跡『高ヶ坂石器時代遺跡(八幡平遺跡)』に行ってきたばかりだった。
八幡平遺跡は、市内を一望(町田市だと思うのだが)できる台地上にある遺跡、今回見学してきた田端環状積石遺構も、ちょっとした高台というか台地というか坂の上ににある遺跡だった。
ここ田畑環状積石遺構も同じ高台にある遺跡である。

勝手にこんなことを思いながら、階段をあがってロータリーに出る。
Googleマップを見ながら遺跡の位置を確認していて思ったのだけど、多摩境駅は、遺跡よりもさらに高い場所にあるような感じだった。
Googleマップの経路によると、多摩境駅のロータリーから『小山白山公園』という公園から下りて行くという案内が表示され、その通りに歩いていったんだけど、小山白山公園の階段がまあまあ急で多摩境駅周辺がかなり高い位置にあるんだなあと地理地形ど素人の私は思った(のちに気になってGoogle検索していたら、町田市は起伏にとんだ地形らしいです(もうちょっと詳しく調べたい))。





この階段を降りたあと左に曲がっていくと遺構までの案内看板がある。



道路をそのまま真っ直ぐ進んでいくと、頭上に『町田市田端環状積石遺構』という看板があり、田端遺跡の入り口がある。
田端遺跡は芝生の公園になっており(埋め戻し保存されている)ベンチと田端遺跡の説明看板、そして芝生の坂をあがっていくと田端環状積石遺構が見えてくる。
先ほどの角を左曲がり坂をあがっていくと、直に田端環状積石遺構に行くことができる。

保育園児と保育士さんがここの細路地から入っていき、私もそれについて行くという若干不審者??みたいな感じになってしまっていたような気がする笑。
みなさま何しに行くんだろうと思いながら一緒に入っていくと、田端遺跡の芝生でみな遊び始めた。そんな光景を見て私はふたたび、ここの遺跡もみんなの憩いの場みたいになっているんだなあと嬉しくなった。
東京都指定史跡『町田市田端環状積石遺構』
町田市田端環状積石遺構は、道路のほうを入り口に住宅地に囲まれた場所にあり、いまも眺めの良い高台の上に存在していた。

環状積石遺構を目の前にして左側に、町田市田端環状積石遺構を説明する看板があった。設置されてから時が経っているからか、文字が薄くかなり劣化?してしまっている感じだった。
看板を目の前にしてもかなり文字が読みにくい。

自分が撮ってきた写真を拡大して、看板に書いてあることを少し書いてみようと思います(ほぼほぼ全文だけど)
縄文時代後期中頃から晩期中頃(約3,900~2,800年前)にいたるまで連続的に構築された遺構で大小の自然礫を帯状に積上げ、長軸(東西)約9メートル、短軸(南北)約7メートルの楕円形を呈し、ほぼ長軸上に富士山を望む。また冬至には蛭ヶ岳山頂に沈む夕日を観測できる。積石の周囲には周石墓7基、土坑墓25基、組石6基がある。積石の内部からは石棒、刻線文石、大珠、玉類、土偶、耳飾、スタンプ形土製品、注口土器、埋甕など日常用具以外の特殊な遺物が多数発見されており、本地域一体に居住する集団の宗教的な場であったと考えられる。
2015年(平成27年)3月設置とあるから、ちょっと時が経ってきちゃってるかなあ~なんて思いながら、薄い文字を読んでいた。
下にある薄い写真は、発掘当時の写真、右側には発掘当時の図面?みたいなものと、下には出土した土器などの写真がある(どれも見づらい)。
町田市教育委員会の方、文字が読みにくいのでぜひ新しいものをよろしくお願いします。
環状積石遺構から発見されたものたちがオールスターすぎて、めちゃくちゃ見てみたい。町田市考古資料館に行けば、少しは見学できるかなと淡い期待を持っております。
とりあえず、ぐるっと環状積石遺構を見学してみる。




最後の写真はさきほど説明看板に書いてあった周石墓?なのかな?と勝手に思った。
令和の現在、目の前に見えている環状積石遺構はレプリカ。実物は保存のために埋戻しされている。


写真の左側に見える保育園児たちと保育士さんたちは、環状積石遺構の遺跡公園で走り回って遊んでいた。
前回の八幡平遺跡もそうだったけど、遺跡公園がみなの遊び場になり楽しく遊んでいる姿を見ていたら、ひとり嬉しくなっておりました。





田端・田端東遺跡
先ほどの細い道から環状積石遺構の場所へ入っていったけど、道路側からも入り口がある。
こちらには、田端・田端東遺跡という環状積石遺構をふくめた遺跡の説明看板が設置されている。



境川に面した丘陵のふもとにひろがる縄文時代の遺跡でムラ、お墓、お祭りをしたと考えられる環状積石遺構(ストーンサークル)が発見されました。1968年に発見された環状積石遺構は1971年に東京都史跡に指定されました。約5,000年前に竪穴住居からなる大きなムラがつくられ、約3,900年前には墓地として使われました。その後、墓地の上に環状積石遺構がつくられ約2,800年前まで使われてたと考えられます。現在、史跡は埋め戻しによって保護され、環状積石遺構のレプリカが展示されています。
右上のQRコードを読み込むと、田畑環状積石遺構の出土遺物を見ることができる。
入り口から右側のほうにも説明看板がある。これまた文字が薄くて。

田端環状積石遺構は田端・田端東遺跡の中に含まれる史跡で縄文時代中期から晩期(約5,000年~2,800年前)にかけての集落、墓地、祭祀場から構成される。周辺の田端東遺跡(南東に隣接する多摩ニュータウン通り)、多摩ニュータウンNo.246遺跡(現在小山白山公園)などとともに広域の遺跡群を構成している。
ここでは史跡全体について説明する。
中期には居住域として利用され、竪穴住居跡7軒、配石2基が発見された。後期には南北22メートル×東西10メートルのハンチに集団墓地が形成され、50基以上の墓壙が分布すると推定される。墓地上に構築された後期から晩期の環状積石遺構は周辺に居住する集団が死と再生に関連する際しを行った場として推定され、当時の精神文化をうかがう上で貴重な遺構である。南西に見える丹沢山地、富士山の眺望は遺跡の選地に関連すると考えられ、冬至には蛭ヶ岳山頂に沈む夕陽が観測できる。現在は環状積石遺構1基、周石墓7基、土壙墓31基、組石6基、竪穴住居跡7軒、配石2基が盛土保存され、環状積石遺構上の同位置には1968年(昭和43年)発掘時の様子に復元された複製が展示されている。
環状積石遺構のレプリカって、私が生まれる前から展示されているだなあ。
年季が入ってきているからレプリカというより、本物と馴染んでくるというか、むしろ本物みたいな感じになってきてもおかしくない、みたいな笑。
隣にある公園と遺跡公園は盛土で保存されていると書かれていたけど、盛土なのか地形そのものなのか、ど素人は混乱(いや盛土っしょ?)。

環状積石遺構を見学し終え多摩境駅をあとにし、相模原市立博物館がある淵野辺駅へ移動した。
駅近のストーンサークル『町田市田端環状積石遺構』、景色も良くベンチもあるので、多摩境駅に来た際にはぜひ見学してみてください(看板を新しくしてくれると助かります)