日本列島に今季最強・最長レベルの寒波が2回目のピークという、そんな寒い中、東京都西東京市にある国史跡『下野谷遺跡(したのや縄文の里)』に行ってきた。
下野谷遺跡は南関東最大級の環状集落で、集落のほとんどは住宅街になって埋まってしまっているが、西集落の一部が地下に保存されており公園として整備されている。
下野谷遺跡(したのやいせき)は、西武新宿線『東伏見駅』から徒歩10分もかからないくらい場所にある。
遺跡方面へ歩いていくと石神井川が流れており、川に沿って西集落・東集落と集落があり、縄文時代中期の南関東最大級の環状集落が、早稲田大学のグラウンド、公園や住宅地の地下に眠っている。
西武新宿線・東伏見駅から下野谷遺跡へ
私の住む千葉の最寄り駅から西武新宿線・東伏見駅まで電車で1時間半ほど。
東西線「高田馬場駅」から西武新宿線へ乗り換え、準急で東伏見駅で下車しました。



東伏見駅の近くには東伏見稲荷神社があり、駅前には大きな朱色の鳥居がある。



歩道は片方にしかなく、この道を歩いてい行くと公園の裏口みたいな場所に着く。
この歩道から裏口に行くには、道路を横断しなければならない。




縄文時代中期の南関東最大級の環状集落『下野谷遺跡』
縄文時代中期の南関東最大級の環状集落『下野谷遺跡』。
集落の下には石神井川が流れており、令和8年の現在、遺跡の周りには住宅地がある。
町田市にある『田端・田端東遺跡』も、保存のために遺跡の一部に盛土が敷かれて、その上に公園があるが、そこ以外は住宅地になってしまっている。
国史跡として現在公園になっている場所は西集落。
下野谷遺跡は戦前から畑の耕作の際に、縄文土器のかけらなどが多く見つかることが知られていたが、正式には1950年、吉田格氏により『坂上遺跡』という名称で紹介された。
その後、長らく調査は行われることはなかったが、高度成長期に遺跡周辺にも開発の波が押し寄せると、学者や学生、地域住民の中に遺跡消滅の危機感がせまり…以下略。
そして2007年に、遺跡保護のため下野谷遺跡公園が開園した。
下野谷遺跡がある西東京市は、武蔵野台地のおおよそ中央している。
下野谷遺跡の縄文時代の集落は日当たりのよい広い高台の上にあり、縄文時代中期には、湧水も豊富で、石神井川の水量もいまより多く、低地には沼があったようだ。
台地上にはクリやクルミなどの落葉広葉樹の森が広がり、水と緑にめぐまれた土地は、採集や狩猟を生業の柱としていた人々にとっては絶好の生活の場であったと考えられる。





写真の真ん中にくねくねとしているのは石神井川、その石神井川のすぐ下に下野谷遺跡をふくめた遺跡が高台に点々と存在している。
石神井川から上のほう、薄緑と水色ぽい色が点在している場所は低地で沼がある可能性が高い場所。
縄文時代など古代から高台で住みやすい場所は、現代でも住みやすい場所なのだ。




土坑墓群(お墓)
下野谷遺跡は環状遺跡で、いちばん外側の円に住居、円の真ん中に近くなるについれて、広場、掘立柱建物、そして土坑墓となっている。
住居に囲まれた広場から長径1メートル程度の穴(土坑)がまとまって見つかっており、このような穴から逆さまに埋められた土器、耳飾りなどの特殊な遺物が見つかっているため、お墓と考えられる。
土坑墓の復元姿って佐賀県にある吉野ケ里遺跡以来かなあ。




竪穴住居(2号住居・3号住居)
下野谷遺跡では2軒の竪穴住居が復元されている。
2件の住居は年代や形も違い、住居の中に置かれていた炉も違いがある。
2号住居
縄文時代中期後葉(約4500~4000年前:加曽利E式期)
入り口がやや張り出し、入り口の両側の壁に床よりも一段高いテラスがある。
6本柱で、壁の周囲には溝がめぐられている。
炉には土器は埋められておらず、浅い掘り込みのみが残されていた(地上炉)。



3号住居
縄文時代中期中葉(約5000~4500年前:勝坂式期)
5本柱で、柱と柱の間の床に浅い溝があるのが特徴。
炉には勝坂4式の土器が埋められていた(埋甕炉:まいようろ)。












土器溜まり(1号住居)
縄文時代中期中葉(約5000~4500年前:勝坂式期)
使われなくなって廃絶された住居のあとから、大量の勝坂式土器が発見された。
単純な廃棄ではなく、縄文人の「おくり」の精神を示す、一種の墓の可能性を指摘する研究者もいらっしゃいます。
レプリカを遺構の真上に設置している。



40分ほど公園で遺跡を見学していた。
縄文時代の人たちの暮らしが、とても感じられる遺跡公園でした。
では、下野谷遺跡から出土した土器などを見学にし田無駅へと移動します。

・西東京市郷土資料室で冊子とパンフレットが無料でいただけます。