丸墓山古墳と稲荷山古墳を見学したあと、古墳の上に埴輪が並べられている古墳「将軍山古墳」を見に行った。
将軍山古墳だけ、古墳の上に円筒埴輪、盾形埴輪という埴輪が並べられている。
それに、ここ将軍山古墳は、古墳の一部を展示館として開放されていて、どんなふうに埋葬されているか、古墳前方部にある埋葬施設などを再現された展示を見ることができる古墳である。
将軍山古墳を外から見学
とりあえず、外から古墳を見学。
さきたま古墳公園の地図によると、丸墓山古墳と将軍山古墳との間には、小円遺跡という遺跡があるみたいなんだけど、ただの草っぱらにしか見えなくて、しかも、みなそこを歩いて、将軍山古墳のほうへ行ったり、東屋のほうへ行ったりと、行き来自由な場所になっている。
でも、なんとなくだけど、草が多いからかもしれないけど、フカフカしたような踏み心地の地面で、他の公園の敷地とは違う足の感触がある。
そんなフカフカな地面を歩いて行くと、将軍山古墳の案内看板がある。
将軍山古墳は、最初に書いたけど、さきたま古墳公園内にある古墳の中で、唯一、古墳の上に埴輪が並べられている古墳である。
ここで相方が「埴輪が傾いているのもある」と言った。
そうです。
古墳時代も、古墳の上に埴輪を並べて完成~!みたいにしていたんだけど、時が経つにつれて、埴輪が傾いてきたり、雨風にさらされて壊れてしまったりすることがあった。
埴輪が壊れてしまったら、古墳時代の人は、また新しく埴輪を作って補修していたということがわかっている。
将軍山古墳を外から見学し終わったら、古墳の裏側?にまわると、建物の入り口みたいな場所が見えてくる。
将軍山古墳の前方部にある「将軍山古墳展示館」
古墳の前方部にあるだけあって、展示館の規模は小さい。
一応、1階と2階に展示室があって、再現された埋葬施設は2階にある。
写真撮影は自由。
将軍山古墳とは?
将軍山古墳は、出土品から6世紀後半あたりに作られたと考えられる古墳。
さきたま古墳群の中では、4番目の大きさで、初めて横穴式石室を採用した古墳でもある。
古墳の造り方は、違うブログで紹介しているんだけど、この文章を読んだとき、やはり多くの人がえっちらおっちらと、道具が限られている中、こんな大きな古墳を造ったんだなと、実感しちゃったな。
古墳の断面の前に置かれている石は、古墳に使われている石。
千葉県にある鋸山あたりから持ってきた石で、何トンもある石をわざわざ千葉から持ってくれる技術というか労力が凄すぎ。
1階の奥にいくと、写真パネル展示、金錯銘鉄剣の複製展示、馬の装飾品が再現されている像が置かれている。
写真パネル展示のとなりにある金錯銘鉄剣の複製展示。
金錯銘鉄剣とは、刀の刃のところに、文字が彫ってあるもの。
この文字を解読することによって、当時の様子?みたいなのがわかるという。
将軍山古墳からの出土品は、馬具などが出土品している。
群馬県にある『群馬県歴史博物館』などにも展示されている馬具。
特に、馬胄は、朝鮮南部で多く出土することから、朝鮮南部からもたらされたものと思われる(馬胄(ばちゅう)とは、馬の冑(かぶと))
日本では、ここ将軍山古墳のほか、和歌山県和歌山市の大谷古墳と福岡県古賀市船原古墳の3例しか出土していない、ようです。
では、2階に上がってみましょう。
埋葬施設を再現された展示室
初めて見た人には、かなり驚くかもしれない展示だけど、将軍山古墳の横穴式石室には、このように埋葬されていたという様子がわかる。
副葬品に時間差が認められることから、追葬が行われていたことが考えられる。
古い副葬品は隅にかたづけられていた、というのが、なんだか悲しいような、これいらない感ありありのような、古墳時代の人たちも、面白いところあるなと思う。
この形を見ただけで、鈴だとわかるもの。
道具類って何千年も変わらないものが多いのが面白い。
埼玉県行田市にあるさきたま古墳群。
朝鮮南部からもたらされた馬冑、金錯銘鉄剣からわかるヤマト王権との関係、古墳時代ここが大きく重要な場所?だった、そりゃあ、埼玉県という県名発祥の地っていうのも納得だな、みたいに、ひとり勝手に思う。
番外編・さきたまテラス
さきたま古墳公園から横断歩道を渡ったところにある「さきたまテラス」。
規模はそんな大きくはないけど、駐車場もある、お土産もある、軽食も食べられるところがある、公園とセットになった観光物産館。
さきたま古墳群にちなんだ名前のメニューもあるから、小腹が空いたら、ここで軽くご飯でもいいかなと思います。
いちばん人気はアイスクリームだったと思う。