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弥生集落の原点・静岡市駿河区にある遺跡『登呂遺跡』

2月23日、家から車を走らせて静岡市駿河区にある弥生時代の遺跡『登呂遺跡』に行ってきた。

登呂遺跡に行くのは、今回で2回目。

今回、登呂遺跡に来た目的は、登呂博物館で開催されている『西の登呂、静岡に初上陸』という企画展を見るためである。

こちらの企画展、私にとっては、とても興味深い面白い企画展だった。

その企画展を見る前に、数年前にも見学したことがある、登呂遺跡について、改めて勉強するように、じっくりと出土品などを見ていた。

 

 

弥生時代の水田稲作農耕集落の遺跡『登呂遺跡』

弥生時代の遺跡と聞いて、どういう感じの遺跡を思い浮かべますでしょうか?

もれなく私もそうだけど、茅葺で作られた竪穴住居、ねずみがえしがある4本の柱の高床倉庫、その周りには、黄金に稲穂がゆれている水田、そんな風景を思い浮かべるのではないのだろうか。

復元された『登呂遺跡』

登呂遺跡は戦後、1947年の発掘調査によって、住居や倉庫が田んぼと一緒にみつかり、米づくりを主とした弥生時代の生活の様子がはじめて明らかにされた。
それ以来、小学校の社会科の教科書には、弥生時代の暮らしの説明として登呂遺跡の集落復元図がずっと利用され、弥生時代の集落は「平和で素朴な米づくりの村」というイメージが定着していった。

ところが、1989年に佐賀県の吉野ケ里遺跡で大環濠にかこまれた巨大な建物群や墳墓群がみつかってからは、弥生時代の集落のイメージは、倭国の統一へとむかう争いと緊張の高まった「クニ」へと代わっていき、登呂遺跡の名前はしだいに聞かれなくなり、教科書からも消えていった。

 

登呂遺跡の場所

登呂遺跡は、JR静岡駅の南2.5キロ、まわりをすっかり住宅にかこまれた静岡平野にあり、発見当時はあたり一面に水田が広がり、富士山も駿河湾に面した松並木もみわたすことができたという。

左に登呂遺跡、右には雲に隠れちゃった富士山が見える

静岡平野は、安部川がつくった扇状地で、扇頂部には粗い砂礫が堆積しているが、登呂遺跡のある扇央から扇端部にかけては砂や粘土が堆積するとともに、伏流水が湧き、水田農耕に適した土地であった。

静岡市立登呂博物館で登呂遺跡の出土品を見学

静岡市立登呂博物館

登呂遺跡の住居などが復元された公園のとなりに、登呂遺跡の出土品が展示されている静岡市立登呂博物館がある。

1階は、無料で自由に出入りができるが、2階以上は、入館料がかかる。

入り口に券売機があるから、そこで入館料を支払う。

企画展も2階で開催されていた

企画展はあとで見るとして、まずは登呂遺跡の展示室に入ります。

展示室の入り口には、登呂遺跡の全体がわかるジオラマ?がある

かなり小さいが登呂遺跡に住む弥生時代の方たちが土器などを作っている

 

今も昔もあまり変わらない登呂遺跡の農耕具

弥生時代といえば、水田で稲作、というのが有名だけど、最初に書いた通り、登呂遺跡でも、住居、倉庫、そして水田が発見されている。

弥生時代の農耕具といえば、主に木材で作られたものが多く、農耕具の形も現代に通ずるものばかりである。

登呂遺跡の農耕具

深田ではなかった登呂遺跡、田下駄の用途が不明のようだ

田下駄

平鍬などの農耕具

登呂ムラの特徴は、水田稲作が生業のなかで大きな比重を占めていたことである。

水田経営を支えていたものとして、木製農耕具が出土している。

水田を耕す際に使用する「鍬と鋤」、雑草などを刈る「刈払鍬(かりばらいぐわ)」、収穫後に脱穀をするための竪杵(たてぎぬ)、臼(うす)は見つかっていない、などである。

田下駄が出土しているけど、登呂水田は、深田ではないことがわかっているので、その用途は不明のようだ(再検討する)。

これらの農耕具を見ると、細かな変化はあるけれども、基本的な形や機能、用途は、そのあとのものと大きく変化はしていない。

弥生時代後期には、水田稲作の作業段階に応じて使用される農耕具の体系が、すでに完成していたといえる。

 

誰もが知っているネズミ返しがある高床倉庫(掘立柱建物)

登呂ムラの倉庫(掘立柱建物)には、四本柱・六本柱・八本柱の三種類があり、地表面に炉跡が見つかっていないことと、戦中の再調査で倉庫の柱穴の深さ(根入れ)が80センチ以上あることをもって住居と区別ができることがわかり、根入れがより深いことから高床構造であることが推定された。

第六次調査では、全体の高さがわかる高床倉庫の柱材が出土している。

高床倉庫について

高床倉庫の特徴

全体の長さがわかる柱材が出土した(右側にある長い柱材)

この柱材は、根入れの下の部分から床の部分ま2.6m、その上の細い部分は上屋部分だと推定できる。

実際に見ると大きい『ネズミ返し』

高床倉庫の建築部材

高床倉庫の建築部材としては、ネズミ返し、井桁組の側板・板梯子が見つかっている。

第一次調査では、両側に突起のある側板や茅材・杉皮などの屋根材が八本柱の建物の周囲で出土したため、セット関係から全体を推定できるが、入り口については確認できていない。

この高床倉庫は、ネズミ返しが押し込みで柱に入れられていることや、穀類の長期保存には乾燥しやすい高床構造が適しているため、穀倉(米蔵)として使われていたことが推定される。

しかも、住居の近隣には対になる倉庫がみつかっていることから、水田稲作農耕集落としての登呂ムラの特徴をあらわしている。

柱材と礎板(沈下防止のために柱の下に礎板が入れられる)

礎板

弥生グルメカレンダーと漁具と狩猟具

弥生グルメカレンダー

登呂遺跡から出土した遺物のなかには、米づくりの道具以外に、漁撈(ぎょろう)や狩猟の道具もある。

沖に出るための丸木舟や鹿角製釣り針、網の浮子(うき)や石錐(せきすい)など、漁具が出土している。

とったサメやフグなどの大型漁骨も集落内からみるかっている。

弥生時代もグルメですね~

石錐

鹿角製釣針

また、弓矢の先端に付ける石鏃などの狩猟具が、シカの骨や角、イノシシの骨などとともに出土している。

石槍と石鏃

弥生時代の人びとは、米づくりだけしていたように思われるが、これらの遺物は、自然界にあるさまざまな食料資源を、縄文時代さながら必要に応じて入手し、食生活を補充していた証拠である。

 

装身具

登呂遺跡から出土した装身具

青銅製装身具の銅環

青銅製装身具の銅環は、出土当初は、還元状態のため、新品の10円玉のように光沢があったが、徐々に黒みを帯びていった。
また、裏側などの摩耗していないところには、鋳造時にできたバリや磨きの痕跡などが非常によく残っていた。

このことから、農耕などの力仕事に従事しない特定の人物が装着していた可能性が高い。

 

登呂遺跡から出土した土器たち

ここで簡単に登呂遺跡から出土した土器を紹介。

椀形土器と小型壺形土器

登呂遺跡の時代ごとに土器が上から下へ並んでいる
登呂遺跡はⅠ期からⅣ期まで土器によって時期を明確に区別できた
破片のみだけど、よくみるとキレイに文様が刻まれている

まだまだたくさん登呂遺跡について紹介していきたいところだけど、かな~り長くなりそうだから、もっと登呂遺跡について知りたい方は、ぜひ登呂博物館に行って、じっくり見学していただけたらと思う。

 

登呂博物館のとなりにある復元された登呂のムラを見学する

登呂博物館で、登呂遺跡から出土した出土品を見学したあと、登呂のムラが復元された公園へと行った。

東日本の弥生時代の住居は、人が住む部分を掘り下げて床をつくる「竪穴住居」が基本だけど、登呂のムラは、地下水位が高いため、地面を深く掘ると水が浸みだしてくる。

そうならないように、地面を掘り下げず、周囲に土を盛り上げて竪穴住居と同様の構造にする「平時式住居」を採用している、低湿地を進出するための工夫である。

住居の平面は小判型をしていて、盛土が内側に崩れないように羽目板を盾に隙間なく並べ、盛土の外側にも横木と杭列によって護岸している。

登呂遺跡の住居

住居の外側には横木と杭列によって護岸している(入り口のほう)
盛土が内側に崩れないように羽目板を横に隙間なく並べている

住居の中には、縄文時代でもおなじみの棚がある

住宅内部には、中央やや北寄りの位置に炉跡があり、その周囲に四ヶ所の主柱穴が確認され、柱穴の底には、柱の沈下防止のための礎版が入れられていた。

南端部には、斜めに掘られた柱穴(出入り用の梯子跡)が確認された。

住居の平面は小判型、盛土が復元されている

高床倉庫
ネズミ返し

水田跡

登呂のムラを眺める

弥生時代の水田稲作農耕集落を知るなら「登呂遺跡」。

それと、今回開催されていた「西の登呂、静岡に初上陸」の企画展を見学すると、東と西、それぞれの弥生時代がわかると思います(もう企画展は終わってしまったけど)。

それに、弥生時代のクニとなれば、吉野ケ里遺跡など、弥生時代の面白さがわかってきたなと思います。

登呂遺跡のマスコットキャラクター「トロベー」登呂遺跡にまた来てね!

※参考書籍